人生の振り返りと新しい生き方について【part1:転機は重なる】

ネイチャー兄さんのテキトウ日記
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昨年の1月以降からほとんどブログを更新することが無くなってしまい、ずっと放置状態だったのですが、ここ最近になりやっと振り返りの時間も取れ始めたので、最近の近況や暮らしの変化について今感じていることを備忘録として書き留めたいと思います。

このブログを立ち上げ、投稿した記事は僕の感じる生き方暮らし方の考え方なのですが、そんな考えのなか自分を信じて進んでいった結果、導かれるように私の人生が変わりました。

うん。導かれる、引き寄せられるという感覚に近いです。

結論から先に言いますと現在は学校の専任教師として子どもたちを教えています。普通科の小学生向けに新たに「ガーデン」という科目として、です。
ずっとエンジニア勤務だった自分が先生になるなんて、自分自身が成る瞬間まで想像していなかった人生となりました。

なぜ、このようなことになったのかも含め過去を振り返ると、幼少期からの暮らしから全て今に繋がっているような気がしてならないのです。

僕の成り立ちストーリーのような形で記録を残していきたい、そして僕の体験や思いがもしほかの人に役立つようなことがあるのなら、という思いでブログとして公開したいと思います。

この記事を書いている時点で私はいま38歳。長年勤めた会社を退職したのが35歳の頃で、そのときにブログを立ち上げましたので3年が経ちました。人生のなかで最も濃く変化のある3年間だったと感じています。大きな心境や暮らしの変化があった3年間を少しずつ振り返りまた自分自信も思い返すことで心の整理も兼ねて、ここに綴っていきたいと思います。

2020年の冬。転職するなら35歳が最後のチャンスと言われていたなか、私が航空製造業のエンジニアを突然退職を決意したときは、将来どうなりたいか。なんてまるで検討もついていませんでした。
しかしきっと、僕はなんで長年勤めてきた会社を辞めるという決心をしたのかについて、もう一度振り返る必要もあると思ったので記事にしながら当時を振り返りたいと思います。

僕が会社を辞めるという決意をした理由として、様々な決定的な出来事が重なったことでした。

一つ目は育児。当時3歳ほどの娘が活発に外で遊びだしてから感じたことです。生まれ育った地で育児を始めたわけですが、当時僕が幼少期に体験した環境とは大きくかけ離れてしまっていたことに直面したことです。具体的には、遊び場に「土」がなくなってしまっていたのです。
僕の幼少期には、それはたくさんの空き地があり原っぱがあり遊具が無くても草や虫たちと遊んでいた記憶がありました。しかしいざ、同じ体験を娘にさせてあげようとしても、それが出来ない環境になっていたことに気づきました。空き地や原っぱは宅地になり、公園は砂利で整地され、つまり生き物に触れることが無くなっていたのです。

僕が大人になり社会人となりコンピュータの画面ばかり見ているうちに、あれほど愛していた周囲の自然がほとんど無くなっていたことに気づき、衝撃を受けました。

2つ目は仕事の環境。2019年末から始まったパンデミックで世界は様変わりした。飛行機での移動はほぼゼロになったことで、航空関連の会社だった僕の会社の仕事量は激減。
急激にオンライン会議が浸透し在宅勤務という新しい働き方、日本では平時であればきっと受け入れることも出来なかったであろう働き方、が半強制的に広がりそんな過渡期においての違和感があった。
それは、結果を評価するのでなく、いかに会社に従属し働いている素振りをすることこそが美徳だ、という会社の態度だった。これはもともと感じていたことでもあったが、会社という組織は(少なくとも僕が所属していた部署は)効率的に働き勤務時間内で結果を残した人よりも、上司と一緒に遅くまで残業している人のほうが好まれる傾向にあることが、コロナ騒動を介して顕著に現れたように思う。長く働いていたほうが偉いだとか、波風立てず屁理屈な会社の方針に従う人が優遇されたわけだが、僕にはそれが耐えられなかったことが理由の一つである。

さらにこの時期、ちょうど僕の立場がマネジメント側に移行されつつある、つまり出世し管理職側となる時期であったこともある。これは僕の性格的なこともあるけど、親身になって後輩を指導する、ということ自体が苦手分野だったように思う。全体の進捗を管理していくプロマネ的なポジションは得意だと自負しているが、一人ひとりの能力を見て、性格をみて、親身になって接するということが苦手だったのだと思う。自分はそんなことないのに、よく冷たい、聞くのが怖いみたいな気難しい先輩のような印象を受けていたから、きっと僕は慕われるような上司になることは難しいんだろうなと感じた瞬間でもあり、逆にこれ以上昇進しマネジメント寄りになることが嫌だった、ということもあると思う。

もともと会社に対する不満は至る所にあり、たとえばやっとこさ電子承認システムを導入したのに説明と稟議理由が必要だからという理由で結局紙も同時に回さなくてはいけないこの会社クソだというルールが多くあったり、上司と後輩関係もうまくいっていなかったこともある。大量の小さい辞める理由がちょうど積み重なったような感じ。

家庭環境においても原因があった。育児という仕事が増えたことにより当時フルタイムで共働きだった夫婦間のストレスや育児家事負担のバランスがうまくいかず、喧嘩が耐えない日々となってしまった。お互いの考え方の相違が大きかったり、お互い仕事で疲れてしまいしっかりと考えることや心の余裕がなくなってしまったことにより、家庭内で心地よい環境が無くなってしまった。当時は毎日残業2時間が当たり前のなか、20時くらいに帰ってきたとしてお風呂もご飯も出来ない。残業なしで帰ってきている妻に毎日負担をかけ、自分が何も出来ない、というより子どもが育っていく現場を見ることが出来ないことに対して、ワークライフバランスが偏っているのではないかという疑問を持ち始めたのもこの頃でした。

当時は毎年夫婦揃ってどんどん昇給したので世帯年収は1000万以上だった。収入が増えていけば豊かになるのかと思うと、全くそうではなかったことを実感する。好きなものがある程度自由に手に入れることができたが、とても貪欲になり無駄な買い物が増えお金があったからといって豊かにはなれないと痛感したのがこの時期だ。心が豊かとはなんなのか?という問いに対して経済的に豊かであることとは別物だと実感したのがインドのひとり旅行のときで、ちょうど結婚の時期に豊かさや幸せについて考え始めたことが大きい。

そんななか、心が窮屈になってしまったせいで攻撃的になり職場でトラブルになってしまったことをきっかけとして休職することになる。

パンクしてしまったことでメンタルの問題を抱え、「適応障害」という診断を受ける。
仕事を休んでいる間、心身疲れ切ってしまっているな、こんな生活はもう長く続かないと思うようになる。自然と「辞職」という言葉が心から離れなくなった。

自分自身と対峙するため、2020年の12月、引き寄せられるように西表島まで旅立ち、そこで退職を決意する。東京に戻ってすぐに辞表届を提出したときは心が晴れ晴れしていたのを今でも記憶している。

常に前向き楽観的で、なんとかなるさという腰の軽さにより、先が何も決まっていないのに退職を決意したことはきっと一般的な日本人的思考とは少し変わった行動だったのかもしれません。親にも辞めない方が良いとまで言われたしね。

しかしあのタイミングで抜け出せるかどうかは、つまり新しい生き方を自分で掴みに行けるかどうかは、「今やらなきゃいつやるんだ」的な野心的な思いがなければ少なからず行動できていなかったと思います。

次につづきます。


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