人生の振り返りと新しい生き方について【part 5 : ボランティアがきっかけで自然のシステムを理解する】

ネイチャー兄さんのテキトウ日記
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Part 3 で投稿したように下を向いて歩くことでゴミの多さに気づいた、ということを投稿したのだけれど、どうしてもそのゴミたちをそのままにしておくことは出来ない気持ちになり、保育園まで歩いて行く時に娘と一緒にゴミ拾いをすることを始めた。その頃5歳くらいだった娘も、「たくさんゴミ落ちてるねー」と言いながらゲームのようにゴミを拾うことを楽しんでやってくれるようになると、すれ違うおばあさんには「えらいねぇ」と褒められるようになる。そうするとこの行動は良いことなんだと認識し自主的にゴミを拾ってくれるようになる。

そんな娘を保育園に送ってから、僕はそのまま散歩とゴミ拾いがてら近所の唯一自然が残されている裏山と呼ばれる森の周遊コースを一周してから帰宅することが習慣になっていた。

この裏山は、僕がかつて少年時代にカブトムシを探したり探検したり秘密基地を作ったりしていた僕の思い出の地でもあり、地理的には崖線に沿った起伏がある広大な緑地でもあり、歴史的には、いわゆる里山と言われ生活のために伐採するために管理された薪炭林でもあった雑木林でもあった。

前回の投稿で書いたけど、僕のやりたいことの一つとして社会貢献をしたいことが分かったなかで、このような都会のなか数少ない自然を残していきたい、僕の思い出の地で経験したことを娘にも経験させてあげたいという思いが漠然として出てきた時に、ボランティアのためのゴミ拾いビニール袋を公民館までもらいにいったときに掲示板にあったポスターに目に留まった。

「緑地ボランティア募集」と書かれていたのでその場で問い合わせをした。

この行動がのち様々なボランティア活動をしてみようという前向きな行動に繋がったキッカケでもあった。つまり里山を守りたいなと思ったのはゴミ拾いがキッカケだし、ゴミ拾いをするキッカケは時間をかけて下を向いて歩いたことがキッカケであった。

「こう思うから行動に移してみよう」という小さなことがどんどんと次へつながっていたことは、今振り返ってみて気づいたことの一つだ。そのときは自然に導かれるように発展していったような気がしたけど、根本には自分の思いや信念を貫いて行動した、次のチャンスを掴み取っていったとも言えるのかもしれない。

この記事では最初に活動を始めた「里山の緑地保全ボランティア」から書き始めていこうと思う。

この活動は月に2回、約2時間の活動で、基本的には笹刈りをしたり、不要な植物を除去したりヤマユリの自生地の整備をしたり、冬には落ち葉集めをしたり、農工大が調査して策定した植生ガイドラインに従って手作業で植生を管理する活動だ。

しっかりと参加できたのは休職していた1年間だったが樹木や草花についての知識をたくさん教えてもらい、とにかく同じ緑地に通い、季節を感じながら、様々な鳥の囀りを聴きながら木漏れ日のなか作業しているとその地のことが少しだけ解るようになった。もちろん僕は専門家でもないしこの分野に自信をもって何か言えるわけでもないのだけれど、僕が感じたのは森という生命体として今この森は生まれ変わろうとしていることはしっかりと感じ取ることができた。
今活動をしているこの森と、約30年前に僕がここでカブトムシを追いかけていたときとは少し雰囲気が変わったなとは感覚的に感じていた。それは、今の方がより一層どんよりと薄暗くカブトムシの代わりにスズメバチが多く、多くの樹木が朽ち始めていたことだ。

その違いはきっと、誰も伐採しなくなった老木が乱立し地面まで日が当たらなくなっていることで日陰でも育つような常緑の木が増えたり、温暖化でスズメバチが越冬しやすくなったことも要因しているのかもしれない。そんな感覚を抱きながらこの森に大きな変化が現れた。

「ナラ枯れ」だ。この現象は近年全国的に増えている環境問題として取り上げられているが、僕はこのナラ枯れによって森が更新され生き返っていく様を目の当たりにした。
最初は、キクイムシの菌によって一気に枯れてしまう病原菌が流行っているから、というように説明され、かつてカブトムシがさくさん採れた木なんかが枯れて行く様を見て、なぜ早く病原菌を殺菌する対策をしないのか!なんて思っていたけど、森の様子を見てすぐにその考えは過ちであることを実感する。

大きな木が枯れ伐採されることで陽が入り、すぐに実生の木や切り株からひこばえが成長しているではないか。

ぼくは考えを改めた。今まで里山として暮らしのために定期的に伐採していた樹々が伐採されなくなったことでそれが大きくなりすぎたことで小さい菌により駆逐され命を絶つことで新たな自然のサイクルが進んだんだと気づいた。それはまるで増えすぎてしまった個体の均衡を保つために伝染病に罹ることで多くの命が奪われ、その数を減らすことでまた安定したサイクルに戻るようなパターンの変化を活動中に目の当たりにすることができた。人間が手を加えずとも自然は持続的な環境を保つためにナラ枯れという事象を発生させることで大木を腐らせ、その倒木は次世代の生命が生きるための栄養となっていく。

わかりやすく言えば、「もののけ姫」でシシ神様の森が消滅した途端、新しい芽としてすぐさま再生していくような、そんなイメージだ。

一見して一つ一つ独立して生きているように見えるけど、ひとつの生態系としてバランスが崩れるとそのバランスを取り戻そうという自然のシステムが働く。人間が手を加えずとも、というより人間が届かないレベルの大きな力が作用し森が変わる瞬間。

僕は大学や前職では物理学を専攻し、モノが現象がどんな理屈で振る舞うのか、という起きていることの理を数式で示す追求をしてたけど、このような自然のシステムの大きな力を感じ、とうてい数式では説明できないようなさまざまな命の関係性と一つの生命体としての均衡を感じたことで、鳥肌がたち、自然には到底太刀打ちなんて出来ない存在だし、私達はそのような自然のなかで生かされている、と感じられることができた。

きっと誰かはこう思うだろう。こんなジジババしかいないボランティア活動をして何になるんだ。どんな得になるんだ。人力で笹を刈ったところで何の意味があるんだ。過去の僕はこうだっただろう。
けど今の僕は全く違った見方をすることができた。答えがないなか進む方向が合っているのかも分からないまま進んでいたけど、今やっと、当時やったことの価値について認識し、正しい方向だったのだと振り返ることができた。

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